
今日はどこに連れて行こうかな…
新しい街の一軒家に、夫と息子の3人で引っ越して来たばかりのハルカ。
彼女の毎朝の悩みは、3歳の息子をどこで遊ばせるかということ。
ひと通り部屋の掃除を済ませ、洗濯物も干し終え、朝食の後片付けも終わらせてひと段落。
今日は特に買い物も無いし、かといって1日中家で過ごすには良いお天気。
でも外は寒い。
もう冬も終わりに近づいているけれど、冷え性のハルカには辛い季節。
靴下を重ね履きしようが、毛糸のスリッパを履こうが、足先はいつも冷たい。
手なんか氷のようだ。
本当なら1日中家にこもってぬくぬく過ごしていたいけれど、体を動かしたい年齢の子どもにとってはストレスだろう。
子どもは暑かろうが寒かろうが全力で遊ぶ生き物だ。
それに、家でぬくぬく過ごしていられるのは自分1人だけの場合であって、やんちゃで一丁前に反抗してくる3歳児相手に心穏やかに過ごせるわけがない。
“今日は怒らない”と決めても、その決意はだいたい朝のうちにどこかへ消え去ってしまう。
だから、少しでも人目のあるところへ出向く方が、自分にとってもカナトにとってもきっと良いのだ。
出典:写真AC
ではどこへ行こうか。
1人で悶々と悩むくらいなら、モヤモヤがイライラに姿を変える前にカナトに意見を聞いてみよう。
「ねぇカナト、今日どこ行きたい?」
問いかけるハルカに小さな丸い背中を向けて、一生懸命車のおもちゃで遊ぶカナトは、一瞬手を止めて考える。
(バスとか電車に乗って行くような、あまり遠出するような場所は答えないで)、と心の中で小さく願うハルカに、
「うーん…、じどうかん!」
ピョンと立ち上がって小さな拳を上に掲げながら、彼はそう答えた。
よし来た!
児童館ならすぐ近くだし、室内だから寒い思いをしなくて済むし、ママ大賛成!
お天気がいいから公園で遊びたがるかなぁと思ったけれど、どうやら私の願いは通じたようだ。
晴れの日は何となく外遊びさせないと後ろめたい気分になるのだけど、暑い時期と寒い時期は、堂々と室内遊びをさせられる気がするのは私だけだろうか。
もちろん、公園に行きたいと言われれば連れて行くのだけど。
それに公園だと、一緒にすべり台を滑るとかお砂場遊びをするのが必須になる。
となると、着る服から考えなくちゃならない。
たとえ近場の公園でも、ママとしては最低限のオシャレはしていたい。
引っ越してきたばかりと言えど、この街はハルカの地元に最も近いため、道中誰に会うかわからないという問題がある。
逆に、スッピンでオシャレのかけらも無い姿の方が気づかれずに済むかもしれないけれど。
とにかく行くところさえ決まればあとは準備するだけだ。
メイクして着替えて髪セットして歯磨きして。
出典:写真AC
今日は室内遊びだし、たまにしか履かないスカートをたまには履いてみよう。
シンプルなファッションを好むハルカは、ざっくりと編んだ白いニットのセーターに、去年の誕生日に夫に買ってもらった黒いフレアスカートを合わせた。
着替えたら今度は洗面所に移動して髪を梳かす。
ハルカの自慢の1つであるクセのない綺麗な黒髪は、後ろに1つで束ねられ、たちまちスッキリとした印象になった。
息子をどこに連れて行くかウジウジ悩んでいた人には見えない。
“外出仕様のママ”が出来上がったら、今度はカナトの番。
ハルカは洗面所からカナトを呼ぶ。
「歯磨きするよー!」
ママの声に応えるように、リビングからバタバタと走ってくる足音。
「ママ、みつけたー!」
1人で遊ぶ自分をよそに出掛ける準備に忙しいママとは、かくれんぼをしているように感じるのかもしれない。
キッチンにいたかと思えばリビングでメイクして、それが終わったら洗面所に移動している。
自分でも何でこんなに忙しく動き回っているのかわからなくなる。
外に仕事に行くわけでもないのに。
カナトは、ママが自分を呼んでくれたことと、自分がママを見つけた喜びに満ちた笑顔で現れ、ハルカの胸をキュッとさせた。
朝は、一緒に洗面台の前に立って歯磨きをするのが日課の2人。
カナトはまだまだ仕上げ磨きが必要な時期。
それを嫌がると、「虫歯」だの「歯医者さん」だの怖いことばかり言われるのがわかっているから、3歳を過ぎた頃から割と素直に口を開けるようになった。
“ぶくぶくペー”もいつの間にか上手になっていて、毎日べったり一緒にいるけれど、急に成長したように感じる時がある。
ハルカは、仕上げ磨きの間じっと自分を見つめてくるカナトの歯から少し視線を上げて、愛おしい気持ちで目を合わせた。
歯磨きを終えてリビングに戻り、クローゼットからカナトの服を選ぶ。
「今日はこれ着てね」
とシンプルなボーダー柄のトレーナーと、年上のお友達からもらったお下がりのGパンを出す。
ところがカナトは不服そうな表情で、
「これじゃない!」
とそのコーディネイトを拒否。
どうやらトレーナーが気に入らない様子なので、ハルカは仕方無くカナトが着たい服を選ばせた。
彼が選んだのは、お気に入りのキャラクターの刺繍が入ったトレーナー。
シンプルなものを好み、キャラクターものはできるだけ避けたい夫婦の意向とは裏腹に、カナトはそのキャラクターにしっかりと心を掴まれていた。
できるだけテレビをつけない生活を貫いていても、あらゆるところに姿を現し、子どもの目を奪っていく。
老若男女知らない者はいないほどのその存在が、子どもを持つことによっていかに偉大なのかを思い知らされる親たち。
ハルカもその1人だった。
子どもにとっては、きっとその存在こそがシンプルで馴染みやすいのだろう。
自分で選んだ服を手に、
「ぼくこれスキなんだぁ」
と嬉しそうな顔をするカナト。
「勝手に選んじゃってごめんね。お洋服自分で着てみる?」
とハルカが聞くと、カナトは素直に首を縦に振った。
着ていたパジャマを上手に脱ぎ、キャラクター刺繍のトレーナーに腕を通す。
こんな動作も、いつの間にかスムーズにできるようになってきている。
ついこの間まで、下着のタンクトップを着るのにも四苦八苦していたのに。
なぜか首を通したところに腕が出てきて、“遠山の金さん”みたいになってしまったりして。
後ろ前もそれほど間違えることがなくなってきた。
服を着る動作が夫と同じ息子を、ハルカは微笑ましく眺めながら着替え終わるのを待った。
カナトは今、何でも自分でやりたがる時期だ。
予定があって急いでいる時は、そんな姿にやきもきしてうっかり手助けをしてしまうのだけど、そうするとカナトは途端に不機嫌になり、
「ぼくがやるんだからぁ!」
と半べそ顔で怒り出す。
余裕があると微笑ましい表情を浮かべて待っていられる自分は、なんて勝手なんだろう。
靴下もカナトに選ばせ、やっと準備が完了した。
ハルカが出掛ける支度をしている間にこれでもかというくらい散りばめられたおもちゃたちには、帰宅するまでそのまま待っていてもらうことにした。
小さいトートバッグに最低限の荷物だけ入れて、2人はリビングを出て玄関に向かった。
出典:写真AC
靴も自分で履きたがるかと思いきや、さっきまでONだったカナトの“自分でやるモード”のスイッチは、リビングから玄関までの数歩の間に“OFF”に切り替わっていた。
マジックテープ式のスニーカーに足をちょっと入れたところで、
「あれ?はけない!」
「ねぇ、はけないよー?」
と騒ぎ出す。
いざ出掛けようという段階になるとグズグズしだすカナトに、
「“はけない”、じゃなくて“はかせて”って言えばいいでしょ!」
とハルカはつい感情的に怒ってしまった。
「ママ、はかせてー」
と気弱になるカナト。
「最初からそう言えば怒られずに済んだでしょ!」
こんな言い方が良いのか悪いのか、考える余裕もなく感情を出してしまう自分。
「ごめんなさい…」
ママの不機嫌な横顔を見つめながら謝るカナト。
2人は苦い空気を引き連れて外に出た。
近所の目もあるし、いつまでも怒っているわけにはいかない。
沸騰したお湯が冷めていくように、冷たい外気に触れて徐々に気持ちが落ち着いていく。
「おてて、繋いで行こう」
ハルカの呼び掛けに手を伸ばすカナト。
温かさを取り戻した2人は、この時まだ知らない。
児童館に行くことが今日の必然であるかのような出会いが、この後に待っているとは。
次回は来週公開~出会いの場
ライター みらこ
3歳男児に翻弄される日々を送る音楽大好きママ